「戦国武将 上杉謙信」花ヶ前盛明氏講演会

上杉謙信の研究について第一人者である花ヶ前盛明氏の講演を聞いてきました(8月8日)。
講演会の内容について、メモったものを箇条書きに書いておきます。


大河ドラマ天地人」について
 ・NHKは「いかに面白くするかを考えている」
 ・戦の前、謙信は、毘沙門堂で祈るのが習慣であったが、NHKは、それでは面白くないというので洞窟の中で祈願するシーンを撮影する事にした。すると全国から、「謙信が祈願した洞窟はどこだ」という観光客が訪れ、タクシーの運転手は困った。→なぜなら春日山城には洞窟は存在しないため。
 ・NHKは、直江兼続織田信長を面会させたいと言い出した。仕方ないので岐阜城で面会させる事に。で、信長とワインを飲みながら面会した。→そもそもウソ。
 ・NHKは、ロケ隊の安全祈願祭をやりたいと言い出した。居多神社ではどうか?と提案したら、「ダメだ。海岸でやりたい。」居多神社ではどうか?と提案したら居多ヶ浜はテトラポットがあるからダメだ。それで、柿崎海岸で祈願祭をやった。
 ・所詮、ドラマはドラマとして見るべき。


実際の歴史について
 ・上杉謙信は、49歳で亡くなったが、若き兼続や景勝に何を残したのか?
  一つは戦の仕方である。謙信は電撃作戦が得意。生涯70回の勝敗は負けなし。しかし、テレビのディレクターは20年前に出した本では2回負けた事になっていると主張。43勝2負25引分け。勝率は、95.6%。
 ・なぜ70回も戦ができたのか。経済力があった。村上鳴海金山。佐渡金山。上田銀山。
・青そ(からむし)の栽培。直江津・柏崎から大阪へ。謙信は船に課税(船道前)。ただ、いくら調べても領収書が出てこない。
 ・最大兵力は、5,553人。
 ・鉄砲316丁。謙信は、鉄砲に対する認識が不足していた。→貧乏であったわけではない。ちなみに信長は、3,000丁所有していた。
 ・謙信の死亡時、春日山城には30,000両もの黄金が残されていた。これを町人に貸していた。
 ・景勝は、このうち10,000両を武田勝頼に渡した。
 ・1597年(慶長2年)、景勝が会津へ移る前の年、秀吉に金を納めた。→越後佐渡で全国の6割の金を産出。
 ・今こそ、戦国武将を見直す時期。考え方や、経済力を学ぶ必要がある。
 ・謙信は、どんな世の中を望んだのか。全国を平定したい。24歳、30歳の2度、上洛している。ただ、謙信の場合、自ら政権をとろうとはしなかった。天皇や将軍から政治をしてもらおうと思っていた。つまり、古い考え方、保守的であった。長生きしても謙信の天下はなかっただろう。越後で天下を見守りたいと考えていた。
 ・亡くなる年の2月、京都から画家を呼び肖像画を書かせている。→死期を悟っていたのではないか。
 ・もう一つ、兼続や景勝に義の心を伝えたかった。義の心とは「筋目」ということ。「えこひいき」ではない。


メモした手帳

新潟県人物小伝 上杉謙信

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新編 上杉謙信のすべて

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