戦道騎馬武者の像

佐渡市徳和の戦道騎馬武者の像を見てきました(6月24日)。
かつて、新潟日報で紹介されていた記事を見て、佐渡を訪れる際には必ず見てみたいと思っていました。
想像していたより大きく、迫力がありました。
これを機会に、上杉氏と佐渡上陸について調べてみたくなりました。










・戦道騎馬武者の像
今から400年余り前の戦国時代の末期、天正17年(1589年)の6月に越後春日山城主・上杉景勝佐渡へ攻め入るという大事件が発生しました。
 それに先立つ数年前まで、上杉謙信は甲斐の武田信玄、相模の北条氏康尾張織田信長と戦を繰り返していました。しかし、途半ばで急逝し、その養子・景勝と景虎の間で跡目相続の争い、いわゆる「御館の乱」が起こりました。
 佐渡勢は両軍の誘いに加勢せず、事の成り行きを傍観していましたが、結局は「御館の乱」を制した景勝に成敗されることとなりました。
 当時、佐渡においては河原田本間氏と羽茂本間氏が2大勢力でした。前者は領内に鶴子銀山を有し、後者は西三川砂金山を支配していたため、いずれも裕福でした。
 沢根から上陸した上杉軍は、まず河原田城を攻略し、羽茂に向かいました。羽茂城主・本間高貞の義弟で、その出城であった三川の腰細城主・本間三河守高頼は、羽茂に援軍を送るべく出立しました。
 しかし、この動きをいち早く察知した上杉勢は、黒金安芸守尚信の率いる一軍を川茂街道に先回りして行く手を阻んだことから、この街道が戦場となり、後の世に「戦道(たたかいどう)」と呼ばれるようになりました。
 兵力でも多勢に無勢、ましてや百戦練磨の越後勢を敵にしては勝てる見込みはありませんでしたが、武士(もののふ)の義を尊ぶ三河守は妻子に離縁状を渡し、「討ちてし止まん」の決意で槍を手挟んで鞍にまたがりました。その時、敵軍の中より進み出でたる一騎、抜刀した安芸守は、馬上より名乗りを上げました。
 これに応えて三河守も名乗りを上げると、両者は鐙を蹴って刃を合わせ、かくて合戦の火蓋は切って落とされました。
 時に6月15日巳の刻、空は日本晴れであったと云います。
 向かって右側、太刀をかざしている武者が黒金安芸守尚信であり、左側の槍を手挟んだ武者が本間三河守高頼。
(現地解説版より)