鶴岡八幡宮

神奈川県鎌倉市鶴岡八幡宮へ(2010年10月23日)。
上杉謙信関東管領就任式を行った鶴岡八幡宮
ぜひとも訪れたかった場所である。


1561年3月16日、この鶴岡八幡宮関東管領就任式が盛大に挙行された。
就任したのは、上杉謙信
念願の関東管領に就任した謙信であったが、どこか気分が晴れないところがあった。
これが後々、大事件を引き起こすとは誰も予想しなかったであろう。


これには伏線がある。
この年、謙信は、反北条軍の関東諸将10万の大軍を率い、小田原城を包囲していた。
越後、上野、武蔵とまさに向うところ敵無しで進軍したが、北条氏康の本拠地である小田原城は堅城であり、なかなか落ちない。
1ヶ月包囲したが、落ちない。
この間、甲斐の武田信玄川中島に侵攻する素振りを見せる。
謙信には時間がなかった。


小田原城の包囲を解き、いわば退却の途中に鶴岡八幡宮での関東管領就任式となったのである。
小田原の北条氏泰を打ち倒し、関東管領就任式を迎えることが謙信の悲願であったに違いない。
小田原城攻めに失敗。
武田信玄川中島に侵攻。
就任式の最中も、謙信にとって気が気でなかったに違いない。
何も思いどうりに行かない。
イライラは募る。


そんな中、下馬せず乗馬したまま挨拶する武将がいた。
埼玉県忍城主の成田長泰である。
乗馬したまま挨拶したというのは、長泰の祖先が源義家を警護した際に乗馬したまま挨拶したという古事に習ったものであるが、これを謙信が知ってか知らずか、
「無礼者、なぜ下馬せぬ」
と叱責し、長泰の烏帽子を叩き落してしまう。
烏帽子を落とされることは、髷を切られるほどの侮辱。


成田長泰は、これに激怒し、その夜のうちに引き上げ、謙信から離反。
成田家は、関東でも名門であったから、この事件以来、関東諸将の謙信に対する信頼も揺らいでしまう。


そもそも、なぜ謙信は名ばかりの職である関東管領職にこだわったのか…。
大きく2つあると考えられる。
1つ目に、関東に出兵するための大義名分を得ること。
2つ目に、越後の内乱を収めるため。
1つ目の理由は明白であるが、謙信にとっては2つ目の理由が大きかったのかもしれない。
越後には、いまだに謙信に従わない武将がいたし、内心では謙信のことを良く思っていない武将も多くいた。
そんな中、室町幕府の要職である関東管領という官位を利用したいという思いもあったのではないか。


いずれにせよ、この事件以来、謙信の関東平定の計画は狂い始め、それ以降、小田原城を包囲するまでの進軍をすることはできなかった。


謙信の人生にとって絶頂の時であった関東管領就任式。
しかし、それは同時に謙信の人生にとって最大の失敗を犯した日なのかもしれない。


この年、上杉謙信川中島にて武田信玄と一騎打ちをしている。
創作であるとされているが、一騎打ちをしてでも決着を付けたいという謙信の執念を感じてもおかしくない。
1561年、上杉謙信32歳のことであった。




大風で倒れた大銀杏。
この大銀杏も謙信の関東管領就任式を目撃したに違いない。