<訃報>宮沢喜一元首相が死去

6月28日16時36分配信 毎日新聞

 自民党衆院議員、宮沢喜一元首相が28日午後1時16分、老衰のため、東京都渋谷区の自宅で死去した。87歳。
 宮沢氏は戦後一貫して「保守リベラリスト」の道を歩んだ。憲法9条改正に慎重で、護憲・ハト派の代表的な存在。経済政策面では、積極財政路線をとり、高度経済成長の流れをつくった。
 生まれは1919年10月、東京。東大法学部卒業後、42年に旧大蔵省入省。池田勇人蔵相(当時)の秘書官に起用され、堪能な英語力と国際感覚を買われ、同氏の訪米に常に同行。53年10月の「池田・ロバートソン会談」で、戦後日本の「軽武装・経済優先」路線の基調をつくった。
 政界入りは池田氏の勧め。同年4月、衆院議員だった父裕氏の地元・広島県から参院議員に初当選を果たした。2期務めた後、67年から衆院旧広島3区に転じた。当選12回。
 初入閣は62年の第2次池田再改造内閣経済企画庁長官。その後、通産相、外相、官房長官、党総務会長などを歴任。86年9月に鈴木善幸前首相(当時)から、池田派に連なる「宏池会」を継承、故竹下登元首相、故安倍晋太郎元外相らとともにニューリーダーと呼ばれた。しかし、竹下内閣の副総理・蔵相だった88年12月、リクルートコスモス未公開株取得に関する問題で辞任した。
 91年11月に竹下派(当時)の支援を受け、72歳で首相に就任。だが、共和事件などスキャンダルが続発、バブル崩壊後の景気低迷にも悩まされ続けた。「実行」を約束した政治改革で、改革法案の取りまとめに失敗。93年6月、野党提出の内閣不信任決議案が自民党内の造反で可決された。衆院解散に打って出たが過半数を確保できず、責任を取り退陣。細川護煕氏率いる非自民の連立政権が誕生、「55年体制」の幕引き役となった。
 その後、小渕、森内閣で、蔵相、財務相に再登板。昭和恐慌の際に首相経験者で蔵相となった高橋是清に倣い「平成の是清」ともてはやされたが、経済再生は果たせなかった。首相時代に不良債権処理がバブル経済対策になると認識しながら、十分な手を打たなかったことへの批判も残った。
 03年10月、世代交代を迫る小泉純一郎前首相の要請を受け入れ衆院議員を引退。ただ、ハト派論客として積極的な発言は続け、小泉前首相の靖国参拝問題では近隣諸国への配慮から慎重に判断すべきだとの考えを示した。自民党憲法起草委員会で「天皇に関する小委員会」の委員長を務めた。
 昨年6月、出血性胃かいようのため、東京都内の病院に入院。7月に退院し、テレビ出演などの活動は続けていた。