新潟県中越地震から1ヶ月

新潟県中越地震から今日で1ヶ月。
余震も少なくなり落ち着いた生活に戻りつつある。
地震を経験したものとして、その記憶を思い起こし、整理してみたい。

・2004年10月23日
 それは何の前触れもなかった。午後5時50分過ぎ、私は2階の自分の部屋にいた。
 すると最初は比較的小さな揺れが3秒ほど続き、その後、大きな揺れが20〜30秒ほど続いた。地震であるとは明らかに分かった(だって揺れているんだもん)。
ただ、あまりにも激しい揺れであり、地震以上のものを感じた。まぁ、どう表現してよいか分からないけど、「この世の終わり」じゃないかって思えた。
電気は大きな揺れになってしばらくしたら停電となった。
揺れてる間ってのは、実際何もできないものです。
学校では机の下に隠れろだとか言いますが、まぁ、そんな生易しいレベルではない。
揺れが治まると、家族の無事を確認し合い、とりあえず家の外へ。
揺れのせいか、ほこりが凄い。
近所の人たちとも声を掛け合い、無事を確認する。
そうこうしている間も、本震と同じような揺れが断続的に続く。
月明かりに、家の屋根がミシミシと揺れていたのが、今でも目に浮かぶ
ラジオでは、「上越新幹線が脱線」などと報道している。
自治体の防災無線での情報が全く流れない(何をやっているのか!)。
地震発生後45分が過ぎてから、ようやく情報が入るがトンチンカンな情報。

地域の人たちと集まり、その後、公園に非難した。
ビニールシートを持ち寄り待機していたが、晴れていたせいか寒い。
いったん、家の中に入るとパソコンが机の上から落ちていた。
自家用車を持ち出し、車の中で非難する家族が多く見られる。
こういった時には、ラジオが貴重。

私も深夜12時頃まで車の中にいたが、その後、家に帰り寝る。

・2004年10月24日
朝起きてみると、事態は極めて深刻。
道路はあちこちで陥没し、墓石も落下。
車で、走ってみると、マンホールは隆起し、道路もいたるところで陥没。
午後2時前になり、やっと電気がつながり、全国の親戚中から電話がある。
テレビを見て、改めて被害の凄さを実感。
断水は、1週間ほど続いた。


まぁ、ざーっと振り返ってみたが、今でも山古志村小千谷市なんかでは、避難所生活の人が大勢いる。
私の地元でも、7割以上の家が被災したといわれている。
仮設住宅も39戸、建設中だ。
道路もあちこちで工事中。

我が家もヒビが入ったりしたが、全員無事で何よりであった。
この地震を経験して、水の大切さや食料の大切さを改めて実感した。
そして全国から温かい支援が寄せられている。
非常に嬉しいことである。


被災者の皆様が1日も早く、普段の生活に戻れることを期待している。