「第4次川中島の戦い」あと一歩のところで

長野県長野市の八幡原史跡公園へ(12月11日)。
何度も訪れていますが、今回は、歴史小説ふうに書いてみましたので、お読みいただければなと思います。


「第4次川中島の戦い
〜あと一歩のところで〜
作:未来の大富豪
写真:未来の大富豪


関東の反北条勢力10万で小田原城を包囲した謙信は、小田原城の攻略にこそ失敗したものの、鎌倉の鶴岡八幡宮関東管領就任式を盛大に挙行した(1561年3月11日)。
これで名実共に関東管領職に就任したわけである。


この動きに対し、甲斐の武田信玄は再び北信濃に侵攻。
同盟関係のあった北条氏康からの要請であったことは言うまでもない。


1561年8月、上杉謙信は再び川中島に軍を進めた。
過去3回、大規模な戦いにはならなかったものの、この川中島で信玄と対峙している。
この度の戦は、大規模な戦になるかもしれない。
いや、今度こそ決着をつけ、信玄の首を獲りたい。
あと一歩のところで、小田原城を落とせなかったのも信玄が越後を脅かしたからである。
憎き信玄。
日に日に思いが強くなる謙信であった。


春日山を出発した謙信は、8月15日には善光寺に着陣。
兵を整え、翌16日には海津城を見渡せる妻女山に陣をおいた。


海津城主、高坂昌信から謙信進軍の知らせを受けた信玄は、2万の軍勢を率い甲府を立ち、茶臼山に陣を張った。


睨み合いが続いたが、信玄としても、今度こそは決着をつけたい。
この戦に勝てば、信濃全域を支配する事になる。
さらに越後には信玄の誘いに前向きな態度を示す諸将も数多くいる。
勝利の暁には、越後を手に入れ、海も手に入る。
日本海から上洛を目指すこともできる。
そんな思いを強くしていた。


信玄は、山本勘助の考案した啄木鳥戦法を採用。
「今度ここは決着をつけられる」
信玄は確信していた。


ところが、上杉謙信のはその上をいっていた。
海津城から上る炊出しの煙がいつになく多い。
今夜、信玄は動く。
そう察した謙信は、夜のうちに密かに妻女山を下り、八幡原に布陣した。


妻女山に向った別働隊、高坂昌信馬場信房であったが、妻女山は既にもぬけの殻。
「しまった、見破られていた。すると御館様が危ない」
高坂、馬場の軍勢は急いで妻女山を下った。


その頃の川中島
別働隊の様子を知りたい信玄であったが、なかなか情報が入ってこない。
何が起こっているか分からない信玄。
それもそのはず、信玄が放った忍びの者は、上杉軍にことごとく捕らえられていたのである。
霧が深い朝であったが、次第に霧が晴れる。


霧深い中、前方から時の声が聞こえる。
「別働隊が戻ったのか」
一瞬、信玄はそう思ったが、違う。
上杉軍である。
先鋒を務める柿崎景家の軍勢である。
信玄の本陣は混乱し、上杉軍の猛攻に防戦一方となる。
それでなくとも、別働隊に軍を振り向けているため、兵が足りない。


気付くと、信玄の周りには誰もいなかった。


その瞬間、前方から名馬放生月毛に跨がり、太刀を振り上げ駆けてくる武将が。
「もしや謙信」
信玄の頭をよぎる。

「信玄覚悟!」

「むむ。来い、謙信」

床机に座す信玄に三太刀切りつけたが、邪魔が入る。
尻を突かれ驚いた放生月毛と共に謙信は去っていった。
「あと一歩のところで…。」


その直後、妻女山に向っていた別働隊は戻り、次第に武田軍優勢な展開に。
劣勢を悟った謙信は、兵を善光寺に引き上げさせる。
痛手を負った信玄も深追いを避け兵を引いた。
こうして第4回川中島の戦いは終わった。


この戦いで、両者とも多数の死者を出した。
特に武田軍は、武田信繁山本勘助、諸角虎定など多くの武将を失った。


小田原城にしろ、今回の一戦にしろ、あと一歩のことろで。
この戦い以降、ますます毘沙門天への信仰を強める謙信であった。