武田信玄は北陸地方から上洛するつもりだったのか!?

そもそも江馬氏が神岡城を築城したのは、武田信玄の家臣である山県昌景に命じられたからだとされております。
これは、越中侵攻の拠点にするためであったと考えられます。
地図で確認すると、富山市へは目と鼻の先にあり、重要視していたと考えられます。


武田信玄は、越中侵攻ということで、越後の上杉謙信を包囲しようとする一方、北陸地方から京への上洛を考えていたのではないか。私はそう推測してしまいました。


東海地方から上洛しようとするには、徳川家康織田信長の本拠地である三河尾張、美濃を通過しなければなりません。
そこで、信州松本から飛騨を経由して越中や加賀から京を目指す手段を考えたのではないか。
さらに、北陸地方上杉謙信と敵対する一向宗が多くいます。
敵の敵は味方ということで、一向宗と連携しながら京都を目指すというのは、かなり現実味のある考えであると思います。


ちなみに1573年、武田信玄を死を間際にして上洛を試みた際は、東海地方へ侵攻しています。
この時期、上杉謙信は関東方面より、北陸地方に侵出する傾向が強まっておりました。
そこで、再び謙信を刺激するより、東海ルートを選んだ。
私は、そう考えます。


さらにさらに、信長包囲網が確立されておりまして、上杉謙信と北陸の一向宗の関係も良好でしたから、あえて信長包囲網を壊すのは得策ではないと考えたことでしょう。


こういう想像ができるのも全国を旅し、自ら地形を把握しているからであります(笑)。
これ新説かしら…。








天守閣からの眺め