城(群馬県)
群馬県高崎市の箕輪城へ(5月22日)。 築城者は、長野業尚。 築城年は、1510年頃。 日本100名城に指定されております。 箕輪城には2回目ですが、100名城スタンプを押してなかったので、訪れました。 我が箕輪城本丸に立ち入ると突然雨が降り出…
群馬県高崎市の和田下之城へ(10月24日)。築城者は、和田業繁 築城年は、不明。 現在は公園となっており、石碑がひっそりと立っているのみであります。 解説板があるのですが、錆びたりして消えかかっております。 『現地解説板より』 和田城主和田業繁…
群馬県吉井町の新堀城へ(10月24日)。 別名は多比良城です。 築城者は、不明。 築城年も、不明。 現地の解説版によると「1590年3月25日、豊臣秀吉の小田原征伐の際、多比良友定は上杉景勝の先鋒藤田信吉に降り廃城となった。」 とあります。 畑…
群馬県吉井町の長根城へ(10月24日)。 築城者は、長根重清。 築城年は、1560年頃。 長根氏は、平井上杉、武田、北条と所属を変えました。 列強の間に挟まると、生き残るために所属を変える事は良くあることです。 現在、城跡らしき遺構はほとんどあ…
群馬県高崎市の大類城へ(10月24日)。 築城者は、不明。 築城年は、1560年。 大類城はこれだけであります。 回りは畑や住宅となっており、この石碑が唯一、城跡を物語っております。 たぶん城というより「館」だったのでありませう。 群馬県にはこ…
群馬県高崎市の倉賀野城へ(10月24日)。 築城者は、倉賀野光行。 築城年は、南北朝時代。 戦国時代は倉賀野行政が城主でしたが、1546年の川越夜戦で戦死。 その後は、倉賀野尚行が城主となりました。 倉賀野城は、箕輪城の支城としての役割を果たし…
群馬県太田市の金山城へ(5月22日)。 金山城へは2回目です。 築城者は、岩松家純。 カーナビをセットしたのですが、私のカーナビ、北関東自動車道が伊勢崎で終点になってやがる。 今では、太田桐生が終点だってのに…。 役立たずのカーナビだ。 さて今回…
群馬県富岡市の宮崎城へ(1月10日)。 現在は、富岡市立西中学校となっており、城の遺構はありませんでした。 宮崎城を紹介する案内板があった程度です。 城主は奥平昌成。 案内板に、発掘調査の写真と解説が載っていました。
群馬県富岡市の丹生城(にゅうじょう)へ(1月10日)。 「丹生」と書いて「にゅう」ですかぁ。 なかなか読めません。 近くの国峰城の支城であったと考えられます。 戦国時代の城主は新田景純と言われております。 っても、この方、知りません。 初めて聞…
群馬県安中市の磯部城へ(1月10日)。 それにしても冬型の天気が続き、新潟県の城はなかなか攻略できませんが、さすが関東地方は冬晴れで城攻めには最高の日でありました(笑)。 これは、結局のところ戦国時代と何も変わっていないのです。 雪に閉ざされ…
群馬県甘楽町の国峰城へ(1月10日)。 関東管領上杉憲政の重臣であった小幡重定の城でございます。 上杉憲政が越後に逃亡した後、重定は武田信玄に通じたため、箕輪城城主の長野業政により追放されます。 その後は、小幡景定が城主となりますが、1561…
群馬県吉井町の一郷山城へ(1月10日)。 1428年、関東管領上杉憲実によって築城されたと思われます。 1563年、西上州に侵攻した武田信玄が一郷山城を攻撃。 城側は大石を落として防戦しましたが、その大石が麓の見銘寺を押しつぶし火災が発生。 …
今年初の城調査へ行って来ました(1月10日)。群馬県藤岡市の平井城へ。 築城者は1438年に長尾忠房が築城したとする説と、1467年に上杉顕定が築城したという説があります。 1552年、関東管領であった上杉憲政は北条氏康に攻められ長尾景虎(…
群馬県吾妻郡中之条町の横尾八幡城へ(11月15日)。 築城者は、尻高三河守です。 っても、知りません(笑)。 尻が高いなんて、きっと美脚で足が長かったんでしょうな(笑)。 んなこたない。 その後、真田昌幸の支城の1つになったこともあります。 登…
群馬県吾妻郡吾妻町の岩櫃城へ(11月15日)。 岩櫃城(いわびつじょう)と読みます。 築城者は斉藤憲行であります。 築城年は1405年です。 その後、戦国時代は真田三代(真田幸隆、真田昌幸、真田幸村)の重要な拠点となりました。 ちなみに、160…
鎌原城に引き続き、群馬県吾妻郡長野原町の羽根尾城へ(11月15日)。 長野原町と聞きピンと来た人は時事問題に強い人でしょう(笑)。 そうです、八ッ場ダムの建設予定地であります。 八ッ場ダムの建設予定地にも行ってきたので、詳細は後日紹介すること…
群馬県吾妻郡嬬恋村の鎌原城へ(11月15日)。 鎌原は、「かんばら」と読むとのこと。 嬬恋村というと社会の授業で勉強したと思いますが、キャベツの産地です。 鎌原城の周辺もキャベツ畑でした。 遺構としては、本丸跡の標柱の脇に大きな空堀がありまし…
赤城高原SAでラーメンを食べた後、群馬県の松井田城へ(9月12日)。 松井田城は中山道の入り口にあった城で、重要な位置にあり、武田、北条、織田と支配者が目まぐるしく変わった城でもあります。 天地人でも出ていた城で、北条方の家臣、大道寺政繁が…
群馬県高崎市の高崎城へ(7月25日)。 築城者は、井伊直政。 井伊直政といえば、この前に訪ねた彦根城に銅像がございました。 周辺は、開発が進んでおり、当時の遺構はほとんど残されておりませんでした。 ただ、写真のとおり模擬櫓と水掘りが残されてお…
群馬県高崎市の箕輪城へ(7月12日)。 日本100名城の1つです。 城主は、長野業政であります。 あの情けない上杉憲政を最期まで支えた忠義ある武将であります。 それに、武田信玄が何度もこの箕輪城を攻略しようと試みましたが、その度に失敗してしまいます。…
4月4日の群馬県、金山城の紹介をしませう。 金山城は、いままで訪れた山城の中でも、最も素晴らしいものであったと思います。 まず、切堀がしっかりと残っていることは言うまでもなく、ご覧のとおり素晴らしい石垣が残っている点でも評価が高いです。 説明…
群馬県館林市の館林城へ(4月4日)。 築城者は、赤井照光。 上杉謙信が関東出陣の際には拠点となっていた城でもあります。 辺りは館林市役所となっており、当時の面影はほとんどありません。 ご覧のとおり、門と一部土塁のようなものがありました。 ここも…
群馬県の小泉城へ(4月4日)。 まぁ、関東地方の城というのは、北条氏の城が多く、1590年の豊臣秀吉の小田原攻め後に廃城となったものが多いですね。 まぁ、この城もその中の1つですな。 ちょうど桜の時期で、城の調査というより、桜を楽しんでしまい…
群馬県、鶉古城へ(4月4日)。 名前が良いよね。 鶉(うずら)ってのが。 遺構はほとんど残ってませんが、堀が少しだけ残っており、周囲は公園として整備されています。 この城の詳細については、看板の写真を参照されたし。
群馬県、真壁城にも(4月4日)。 現在はゲートボール場となって、その上に本丸があったのではないかと想像できます。 「私有地につき立ち入り禁止」と書いてありましたが、少しだけ捜索してみました。 しかし、特別なことは分かりませんでした。 これだけ…
4月4日、今週も引き続き群馬県の城調査へ。 まぁ、こうやってどんどん調査に行けるのも麻生総理が高速道路料金を1,000円にしてくれたからです。 確かに高速道路を走っている車の数は普段に比べ多いです。 ほんと、重ね重ね御礼申し上げます(笑)。 …
3月28日、同じく群馬県の白井城へ。 もう、本当に1日にどれだけ城を回れば気が澄むんだと、こう思われることと思いますが、まぁ、これは趣味というか、もう仕事というか・・・。 だから、言ってるんですよ、これだけ仕事も一生懸命すれば、凄いことになるで…
3月28日、群馬県平定の旅の続き(笑)。 前橋城へ。 別名、厩橋城。 現在は群馬県庁となっております。 上杉謙信が関東出陣の際には、拠点となっており、この城で何度も年を越しました。 謙信は、この城の城代として、北条高広を任命しました。 そう、北…
3月28日、群馬県の阿岨城へも。 マイナーな城ですけど、下記のとおり、言い伝えの看板があり、想像力をかきたてられた。
小川城の近くの名胡桃城へも行きました。 ちなみに、今は3月28日の群馬県訪問の城を紹介しておりますが、順不同で書いております。 この名胡桃城を訪れたのは夕方で、だいぶ暗くなっていたので写真写りを心配しましたが、ご覧のとおり比較的良く撮れてい…